どうも。やだオスカル(@yada_oscar)です。
有名なブロガーさんのブログを読んでみるとみなさん、プロフィールをすごく充実させてるんですよね。ということで!ボクも書いてみました!どうぞゆっくり読んでいってみてください。一度に更新は大変なので、徐々に追記してしていくつもりです。
やだオスカルの略歴
1985年、三重県に生まれる。名古屋の芸術大学を卒業後、2006年ごろに漫画家をめざして上京。数年後、いまの会社に就職。デザインや進行管理をしながら、イラスト制作・ライブペイント・ブログの制作をしています。
小学校時代
まず思い出すのは喘息の記憶。犬アレルギーと併発して喘息があることがわかり、このあと長くお付き合いしていくことになります。
学校では頭がいいほうの部類だった気がします。単純に楽しかったし、習い事もスイミングスクール・公文(くもん)・絵画教室など、親にいろいろ行かせてもらっていました。小学6年生からは妹がピアノを習いだすといっしょにボクも習い始めましたね…懐かしい。
あと昼休みはいつもじゆう帳に絵を描いてました。自分が考えたキャラクターの、こうげきや、ぼうぎょうのステータスを描いたり、ノートを見開きにして友人と向かい合わせでロックマンやボンバーマンのステージを描いてました。
ポケモンに小学生4年のときに、まんまとハマり、メガネをかけるようになったのもこのとき。
中学時代
ボクの人生史上、一番のオタク時期です。プレイステーションがでたことで恋愛ゲームやギャルゲーやすごく増えたんですよね。はじめてプレイしたPS版『To Heart』がおもしろいのと、女の子がカワイイのとで(そして友人たちも同じ道を歩みはじめたこともあり…)、この道がボクの道だ!と思ってゲーム、アニメオタク街道をつきすすんでいました。
「好きな曲を流せる」という理由で学校では放送部員になり、早朝の時間と給食の時間に自分の好きなアニメソングを流すという、今思えばテロ的なことをしていました。これはこれでいい思い出です(いっしょに同じ枠を担当していた友達はとても迷惑していましたが…)。
また部活はバスケ部に入ろうと思ったんですが、喘息がネックになり、もうひとつ興味のあったパソコン部に入ります。まったく真逆だし、熱しな部活ではなく帰宅部一歩手前の人たちが集まるような部活でした。だけどボク的にはタイピングを覚えるためのRPG風のゲームがあったんですが、これがとても面白くひたすらやりこんでいました。いまでも「上昇気流「ZYOUSYOUKIRYUU」のタイミングは覚えていますね…。なのでこのときにボクはタイピングを完璧におぼえました笑
このときから将来なりたい職業は漫画家がいいなぁと考えだしていました。
高校時代
高校のとき、友人がはいるという理由で弓道部に所属しました。弓道ならはげしい運動もしないので、喘息もちのボクでもできたんですよ。ただ入りたてのころの筋トレがとても厳しく当初20数人いた新入部員が最終的には7人ほどになっていました。いい成績はこれっぽちも残せなかったのですが、礼節を重んじたり、朝練の道場のパリっと雰囲気なんかはとても楽しかったです。
好きな弓道も2年の後半になるとボクは辞めてしまいます。芸術系の大学への進学を考え入試に必要なデッサンの練習をしたかったからです。まわりより、はやく受験勉強に取り組む形なり、そこから弓道部の人たちと距離があいてしまったのは少しさびしかったですね…。美術部から弓道部の練習風景をいつも横目で見ながら大量のデッサンを描いていました。
そして進路を考えたこの頃からボクの目標が明確に「漫画家になること」になりました。
「今から目指せば絶対なれるんじゃない?」と思い、それに必要ではないと思うことは意図的にしないようにしました…。ということで高校生活の甘酸っぱい思い出はないのですよ。
そのかわり、高校時代のボクは脚本の勉強をしようと大量の映画を見てはノートに感想をつけるようになりました。一番多い時で映画を年間150本見ていましたね。懐かしい。
まま、その甲斐あってか無事第一志望の芸術大学に進学することになります。
大学時代
大学になるとボクは毎日、2時間かけて名古屋の大学に通うようになりました。
また途中から実家近くで父親が焼肉屋を開店し、その手伝いをしていたりしました。
正直なはなし、ボクの自我の芽生えは大学からな気がしますね…。とくに2年からは意識してではあるけど急激に社交的になっていろんな人と話すようになりました。かなり遅めのスタートですが、それくらい大学は刺激が多くて、外に対して自分はどうあるべきかとか、いろいろなことを考えるようになりました。
ボクにとって大学というのは、勉強よりもいろりろ経験するための場所でした。将来漫画を描くためには、いろいろな経験をしておいたほうがいいと思い、大学のいる間にそのストックを作るという計画です。なので授業はそっちのけというか、大学の授業をまじめに受けていた記憶はすごく少ない気がします。2年にあがるときに希望のコースの先生が作品がダメすぎて受け入れるのをしぶったくらいです。後々、そのあと気に入られるわけですが…。
おかげで大学のときにはいろいろ経験できました。地域活性化サークルに参加・ダンス・演劇部・お祭りでの似顔絵などなど。
このとき名古屋は『少年チャンプル』という深夜番組がはじまり空前のダンスブームだったんですよね。ボクもどはまりし、好きなダンサー見たさに深夜バスで東京へ行ったりしていました。その後自分でも踊るようになり、地方の大会に出場したら、なぜか優勝してしまいました。この事実は数年後、就職活動のときにとても役立ってくれます。感謝。
大学中に漫画を1本描き、集英社の編集者に見てもらいました。ただ、出来はといえば、
未完成だったし、クオリティも低く、全然ダメでしたね。すごく緊張したのを覚えています。
卒業制作には一度描いてみたかったフルカラーのフランスのアニメーション映画のような漫画を描きました。これについては当時大好きだったアニメ映画『ベルヴィル・ランデブー』の影響をめちゃくちゃ受けています。
卒業制作が描きおわると、ボクなりの就職活動と銘打って、ボクは31ページのマンガを描き、複数の出版社に持ち込みました。1社担当の方から名刺をもらいましたが、いい結果はでず、ボクの大学生活はいったん終了します。
そしてここから暗黒期に入ります…!
大学卒業後
大学を卒業するとボクは、焼肉屋の店舗の上の住居スペースに自分の部屋を作り、店を手伝っては漫画を描くという生活をしていました。たくさん時間もあるし、いっぱい描くぞ!と意気込んだのですが、いざ取り組むとネームがまとまらず気づけば白紙の原稿を前に机に座った状態が1年経っていました。
そして、焼肉屋は不景気や狂牛病などの影響もあってか、経営が悪化してきました。
資金繰りが難しくなり、実家は売りにだされ、家族全員が店舗の上の住居スペースに引っ越しました。実家は、近所でも有名な立派な家だったので、それを手放すときの親はだいぶまいっていましたねぇ…。
もともと亭主関白だった父親から離れたいという思いもあり、ボクはコナミの財団が行なっているクリエイター育成事業の試験をうけます。この試験に受けると財団が1年間サポートしてくれ、援助金or東京での仮住まい(家賃無料)ができるというものです。
ボクはその試験にうかり、渋谷近くの社員寮に住むことになりました。
上京後
社員寮は、オートロック付き、冷蔵庫、ベッッド、エアコンも備え付けでとてもありがたい環境でしたね…。当時は100万円の貯金をもって上京し、それが尽きるまでやってみよう決めました。なのでお金は貴重だったのでひたすら節約をしていました。毛布は買わず1年間新聞紙やダウンジャケットをかけて寝ていたり、食事は毎日ホットケーキをつくり食べていました。そして絶賛スランプつづきという…。
なんとか1年間かけて、描き上げた読み切りも担当にケチョンケチョンに言われたボクは、せっかくだからと、別の出版社にもっていき、そこでまた新しい担当がつきました。そしてここで賞をめざして描いていくことになります。
ただ…、ここからボクの人生は急展開していきます。
実家の焼肉屋がつぶれてしまい、父が新しい店を神奈川ではじめるために母と妹(そして猫2ひき)を連れて関東にやってきました。ボクはそのとき、家族が大変なときに自分だけ自由に過ごしていたことが申し訳無い気持ちもあり、またその新しい店を手伝うことにしました。毎日ぼくだけ店に寝泊まりしつつ、賞にむけて漫画のネームを描いていましたね…。
ただ、お客さんがつくまえに資金繰りが厳しくなり、そのお店も半年経たずにすぐに潰れてしまいました。借金がボクらまで及ばないよう両親は離婚し、ボク、母、妹、ネコ2匹の生活がこうしてはじまりました。
映画館でのバイト時代
まずは収入の確保のため、すぐに映画館のバイトをはじめました。ボクのところはスタッフは映画を無料で観れたので漫画の話の勉強にもなると思ったからです。そして仕事をしながら描きあげた漫画をボクは賞にだしました。70ページというバカみたいなボリュームのマンガでした。たぶん1年くらい描いてたきがします。状況がもうマンガを描いている場合じゃないなと思ったんですよね。だから出し切りました。その70ページです。
区切りがついてスッキリしたボクはすぐにポートフォリオを作り、就職活動を開始します。ふりかえると、このときの就職活動は本当に楽しかったですね。就職するのが先かお金がなくなるのが先か…という状況だったし、疲れた体で泣きながら絵を描いてましたが、前進している感じはすごくありました。このときにボクは本当に楽しいことには辛いや苦しいとういう感情も含んでいるんだと学びました。
就職して今
そしてご縁がありボクは、まえからの興味のあった今の会社に入社しました。いろんなことがありましたが、結果的にそれがすごく活きてますね。ただ、就職して一人暮らしをはじめて2年たったある日、ボクはまたもや衝撃の事実を知り、急いで家に戻ることになるのですがぁぁ!…それはまた別のお話し。一度に書くと疲れてしまうので、あらためて追記していきますね。
いったんここまで!
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